
放し飼いの山羊 (2006年10月20日ハングライ村) |

ニワトリは村人の重要なタンパク源だ。 (2006年10月20日ハングライ村) |

闘犬ムティーク2歳は町の大会で優勝した。ムニールさん自慢の愛犬だ。 (2006年10月20日ハングライ村) |

授業が終わった小学校 (2006年10月20日ハングライ村) |

老人がコーランを読んでいた (2006年10月20日ハングライ村) |

授業が始まる前に集合写真を撮らせていただいた (2006年10月20日ハングライ村) |
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私は2005年10月下旬の地震発生直後と2006年1月、バラコットから15キロの山村ハングライを訪ねた。人口2000人の村は死者84人、負傷者70人、ほとんどの家が倒壊した。バラコットからハングライ村に通じる道路は急峻な山を切り開いて作ったために至るところで崩落し、地震発生から1週間、村は孤立していた。1月に訪ねたときには被災者が雪の重みでつぶれたテントを掻き出していた。氷点下の中で春が来るのをじっと待っていた。
被災後1年、今どうしているのか知りたくて、3度目のハングライ村に行った。途中、遠くヒマラヤに続く山々が真っ白い雪をかぶって夕陽に輝いていた。もうすぐ山にも雪の季節が来る。
ジープが村に着くと、私を発見した子どもたちが、「アブドラ」と元気な声で私を呼んだ。「アブドラ」は彼らが以前つけてくれたパキスタン名である。
早速、前回もお世話になった、サベール・フセインさんの家を訪ねた。ジープの停留所から谷を渡り斜面を登ってゆくと、壊れた家を片付けた時に出た材木が積み上げられていた。サベールさんは、廃材を利用して掘っ立て小屋を建て、住んでいた。雪が降ってもつぶれないのでテントよりましだ。私が訪ねた時はイスラムの大切な行事、ラマダン(断食月)だった。日中は何も口にしない。私も見習って、日中は何も口にしなかった。のどがカラカラ、腹は空腹でグーグーなっていた。日没後ミルク入りのチャイとカレー味の鶏肉入りスープ、ナンで夕食をごちそうになった。
サベールさんの息子のサーキブ君(15)は母親と一緒に、バラコットへの入り口の町マンセラで学校に通っているという。村の学校ではたいした教育も受けさせてあげられないので、町に出したとサベールさんは言った。地震で長男を亡くし、残った一人息子も町の学校に行ってしまい、ちょっと寂しそうだった。
夕食が終わる頃、たき火やランプの灯りが山腹のあちこちにともり静かに更けていった。
翌朝、周辺の山々は雲に覆われ、小雨が降りはじめた。気温も一気に下がってきた。手元の温度計は5度になっていた。
朝食後、村の小学校に行った。傘を持っていない子どもたちはびしょ濡れになりながらやってきた。遠い子どもたちはほとんど休んでいた。
小学校の先生は一人だけ。サベールさんの兄、ムハンマッドさん(54才)だ。昨年地震の時に全校生徒164人のうち10人が死亡した。目の前で仲良しの友達を失った子どもたちは大きなショックを受けた。「今も、時々物思いにふけって沈みこんでいることがある」とムハンマッド先生は言う。避難先から戻ってこない子どももいて、生徒数は激減した。薄暗く底冷えのするテント内で子どもたちは元気にコーランを読んでいた。
ムハンマッド先生は「新しい校舎を建てたいのだが不可能だ。暖房のないテントの校舎では寒くて勉強できない。ノートや鉛筆などの学用品を持っていない子どもたちがほとんどだ。子どもたちに学力をつけさせたいが、村の力では出来ない」といっていた。
さらに「昨年、地震のために小麦の種まきが出来なかった。今年は小麦がないのだ。村はみな困っている。政府は何もしてくれない。この冬は食糧不足になるだろう」と暗い表情で言った。
2日後、村を離れる日サーベルさんが見送ってくれた。おみやげにビニール袋いっぱいの今年採れたクルミをくれた。自分たちの食料が不足しているというのに・・・・・。私はぎゅっとサーベルさんの手を握ってお礼を言った。
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